唇が触れそうになった途端に本能が警笛を鳴らした。

僕は身を強張らせて目の前の男の手を振り解くと、精一杯の力を込めて突き飛ばす。その勢いで出会ったばかりの名前も知らない中年男が背後の床に倒れた隙を突いて僕は着の身着のままホテルの部屋を這い出るように飛び出した。

ボタンを連打して呼んだエレベーターに飛び乗る。
フロントを走り抜けて回転ドアを乱暴に回すと外に出る。

鼓動がざわめく。
やり場のない熱が蠢く。

僕はよろよろとホテルの隣に建つビルの壁の前に蹲ると持て余した熱を必死に宥めるように自分の女々しい体を抱き締めた。

己の中のモンスターを。
欲望と言う名前を持つモンスターを。



□□モンスター□□



僕は既に明かりの消えた繁華街を歩きながらスマホを取り出すと現在の時刻を確認する。午前二時。自分が部屋を飛び出すより相手を閉め出してやれば良かったかもしれないーーじっとりと肌に粘り着くような日本の熱帯夜特有の湿った空気に項垂れながら、感情のままに部屋を飛び出して来てしまった早計さに舌打ちをする。

家族には親友の家で宿題をするからと連絡してある手前、今更のこのこと帰る訳にも行かないし、そもそも帰宅するにも終電を考えると故意に地元から離れたホテルを指定した自分が全て悪い。土曜の夜に空室があるホテルを今から探すにも気力が持たないし、まさか今のホテルに戻って空室を借りるのは些か危険過ぎるか。

その時。

「…藤原?」
「…あ」

自分を呼ぶ低い声音に反射的に振り向くと、そこに立っていたのは先日隣のクラスに神戸から転入して来たと言う一人の男子生徒。

確か大病院の御曹司な上に見た目もそれなりに端正だから現在学園中の女生徒から熱いラブコールを一心に受けているとかいないとか。記憶を辿りながら口を開くと目の前の青年が微笑みを浮かべ、その拍子に彼が身に付けているオリエンタルな香水の薫りがふんわりと鼻先を掠めた。

「えっと、蜂須賀?」
「正解。
まさか生徒会長様が俺を覚えてくれているとは」

その言葉に我に返る。

自分の中に恐ろしい怪物が住んでいる事を自覚したのは一体何歳の頃だっただろうか。

所謂ピアニストの父と声楽家の母を両親に持ち、年の離れた兄は指揮者として音大に通う音楽家の裕福な家庭で育った僕の背中には物心付いた時から憑き物のように自分の将来のレールが黒い重圧となりのし掛かっていた。しかも常に藤原家のマスコット的な存在としてマスコミや各メディアで取り上げられることも珍しくなかった。
勿論それが自分の宿命だと受け入れてはいたけれど、年頃の子供のように悪戯をしたり買い食いをしたりだとか年相応の事に憧れて「他の子供とは違う」と言う境遇を足枷のように感じていたのも事実。

「で、何してたの?」

けれどもそんな感傷など知らない蜂須賀は前髪を気怠げに掻き上げながら僕に問う。

「君は何をしていたの?」
「それを言ったら藤原も答えないとフェアじゃないけど?」

クラブやら何やらで女と遊んでいたのだろうに人を食ったような態度をするんだからーー蜂須賀は僕の言葉にも悪びれずにはぐらかすが、何故かその反面で蜂須賀と言う存在はミステリアスで得体の知れない雰囲気が良く似合う。丁度二人の横には飲料の自動販売機がある。真夏の新月。その自動販売機がぼんやりと二人を照らしてくれているからこそ僕は彼の表情を窺い知れた。

高校生と言う年齢の割りに落ち着いている掴み所のない佇まいが気に入らないのだろうか。実は僕はこの男が余り得意ではない。周囲の目を気にせず自分のペースを貫き通す姿が従順な羊の群れの中にいる山羊のようで。

良くも悪くも浮いていた。

「でもこの辺って余り深夜営業している店は…」

その時そう言い掛けた蜂須賀の背後にこちらに歩いて来る身に覚えの有る人影を認めた僕は、慌てて蜂須賀の手首を掴むと建物と建物の細い隙間に身を隠す。そしてその人影がこの隙間を覗いても構わないように蜂須賀の胸に顔を埋める。結局人通りのない道に響く靴音が、近付いて来て離れて行くのを僕は同性の同級生と恋人同士の振りをして遣り過ごした。

「…そー言う事か」

多分蜂須賀はその男が見るからに高そうな有名ブランドの背広を着て居た中年男性である事。彼が言い掛けた様に「この辺りで深夜営業している店は」限られて居る事ーーこんな時間にホテル街の方角から来る人間がどう言う人種であるのを瞬時に理解したようだ。蜂須賀はまるで女を扱うように僕の背中を柔らかく撫でると、からかうようにピュウと口笛を吹いてカラカラと笑う。

「で、藤原は売る方?買う方?」

その口振りでは完璧に事後だと思われている。

「未遂!」

僕は足音が遠ざかったのを確認し蜂須賀から体を離すように狭い空間から飛び出すと、ある程度事実を知られる事を覚悟しつつも自分の潔白を晴らす為に口を開いた。

モンスターと言うのはもう一人の僕の名前だ。何故怪物なのかと言うと、それは世間には否とされる感情で時折自分の思考や理性を麻痺させる程に強い感情だから。僕の中にいる「周囲の期待に応えて一流の人間にならなければならない」と願う自分と「モラルや道徳なんてぶち壊してナンボの物だ」と常識を軽視し第三者視点から冷めた眼差しで見ている自分。そしてその怪物が叫ぶ。

皆が想像している僕の殻なんて剥いでしまえと。
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